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まだ夏を思わせるような太陽も、ようやく優しい輝きに変わる、そんな夕暮れ時。 斜光線に照らされながら、俺は奥寺先輩とともに歩道橋を歩いていた。 一歩先を行く先輩の背を見ながら、焦燥感が募る。 どこかに向かって歩いているわけではない。ただ何となく駅の方に歩いているだけだ。 今日のデートプラン、あいつの立てたプランには、ここまでしか書いていなかったから。 さっきから会話は途切れていて、何か、何か言わなければ、と、そういう焦りだけが大きくなる。 「あの、先輩、腹減りません？　 晩飯とか……」 しかし、どうにか場をつなごうとした言葉に、先輩は首を縦に振らなかった。 「ふふっ……　今日は、解散にしよっか」 その言葉は俺を責めているわけでは決してなく、むしろ駄々っ子をあやすような響きで。 しかし俺の中では何かが音を立てて崩れていく。ドッと冷や汗が吹き出すのが分かる。 「あ……　はい」 やっちまった…… 分かってはいたけれど、こうしてはっきり結論が出ると、やはりショックを受けてしまう俺がいる。 失敗だ。今日のデートは大失敗だった、みじめなほどに。 固まってしまった俺に、先輩は少し笑みを浮かべたまま言葉をつなぐ。 「瀧くんって……」 「はい」 「違ってたら、ごめんね？　……君は昔、私のことが、ちょっと好きだったでしょ？」 ええええええ！ ば、ば、ばれてる!?　なんで!?　まさか三葉が、それとも司が余計なことを!? さっきとは違う種類の汗が全身を伝う。 確かに普段の俺の態度を見ていたら先輩のことを気にしているのは傍目にも明らかかもしれない。 でもそれをまさか当の本人からこう面と向かって言われるとは思っていなかった。 な、な、なんて答えればいいんだ!?　パニックで頭が真っ白になる。 思わず、俺は今でも先輩が好きです！なんて勢いで口走ってしまいそうにもなる。 だが、本当に俺がパニックになったのは、この次の言葉だった。 先輩は変わらず少し微笑んだまま、こう言ったのだ。 「そして今は……　別の好きな子がいるでしょう」 「ええっ！　い、いませんよ！」 誰のこと!?　と思って、反射的に思い浮かんだのは……　いや、でも違う。あいつとは、そんなんじゃない。 「本当？」 「いないっす！　全然、違います」 そうだ、違う。先輩の勘違いも大概だなと思う。俺たちは、そんな関係じゃない。 なのに……　口では否定できるのに、なぜか俺は先輩の目を真っ直ぐ見ることができなかった。 「本当かなぁ？」 それでも先輩は疑り深そうに俺を見上げていたが、 「ま、いいや！　今日はありがと、またバイトでね」 そう言うと、あっさり俺に背を向けて歩き出してしまう。 「あ……」 何か言わなければ、何かしなければ、そう思いながら何となく伸ばした手は空を切り―― 俺は歩道橋に一人、取り残された。 今日、俺は心の準備なんて全然できていなかった。 そもそも奥寺先輩とデートすることを、デートする本人が当日になって知ったのだから。 こんなことは人類史上でも前代未聞の出来事に違いない。 初めてのデートで、しかも相手があの奥寺先輩というシチュエーションは、俺にはハードルが高すぎる。 前もって言ってくれよ！　っていうかむしろお前が代わりにやってくれよ！　と心の中であいつに叫びつつ、ただそれでもあの瞬間までは、俺はどうにか今日のデートを成功させようと、奥寺先輩を退屈させないようにしようと必死だったのだ。 でも、あの瞬間…… 飛騨のあの写真。 行ったことなんてないのに、でもまるで昨日まで過ごしていたかのような懐かしさを感じる、あの景色。 そうだ、と思う。あの写真を見た時から、俺は先輩のことを考えられなくなってしまっていた。 奥寺先輩にとって、今日のデートがどういう位置づけだったのか、ここに至る過程を知らない俺には分からない。 俺にとっては人生の一大事でも、先輩にとってはちょっとした休日の気晴らしだったのかもしれない。 ――いや、そんな風に考えること自体が間違いだ。理由が何であれ、先輩が俺のために一日をくれたことには変わりない。 今日の先輩はあまりにも綺麗だった。だから俺は余計に舞い上がってしまったのだけれど、そう、あれだって俺のために、俺に見せるために用意してくれたものなのだ。 楽しませられなかったのは、残念ながら俺のスペック不足だ。 三葉にからかわれたことを認めるのはしゃくだけど、確かに俺には経験が足りない。 たぶん今日をもう一度やり直したとしても、また同じ結果になることだろう。 だからそれは謝るしかない、そう思う。 でも…… 奥寺先輩を目の前にしながら、俺は他のことで頭がいっぱいになっていた。 もし、ここにいるのがあいつだったら……　そう、確かに俺はそう考えてしまったのだ。 それはとても失礼なことで、彼女に対する最悪の裏切りで。 だから、罪悪感だけが強く胸に残った。 「……すみませんでした」 もう遠ざかってしまった先輩の背に向かって、小さく呟く。 言葉は都会の喧噪に紛れて、空へと消えた。 太陽が沈み、空が藍色に染まる頃。 俺はまだ歩道橋から立ち去れずにいた。 先輩のあの一言が胸に響く。その答えを出すまでは前に進めない、そんな気がして。 (今は別の好きな子がいるでしょう) 俺があいつのことを好きだって……？ 俺たちは入れ替わりの日々を携帯のメモに残している。昔風に言えば交換日記のようなものだ。 入れ替わりのことは秘密だから誰にも見せたことはないが、もし俺と三葉の関係を疑う人がいたら、これを見せてやりたいと心から思う。 さあどうぞ皆さん！　俺とあいつのラブラブな交換日記をご覧ください！　と。 そこには甘い言葉など一つもない。むしろお互いへの非難の応酬が目立つくらいだ。 どうです？　これが恋人同士のやりとりに見えますか？　そう考えるとおかしくなって、ふと苦笑してしまう。 今日のことだってそうだ。 この結果をあいつが読んだら、フォローの言葉が返ってくるとでも？ 冗談じゃない。 たぶん、"せっかく私がお膳立てしてあげたのに何しとんの!?"、"まったく、この男は！"、"そんなんやからもてないんよ！"なんて言葉が、速射砲のように並ぶのだ。 そして俺は俺で言い返したいことが山ほどある。"お前が先に言わないのが悪いんじゃねーか！"、"そもそもデートのセッティングなんて頼んでねーのに勝手に進めんなよ！"、"俺の人間関係変えるなって言ってるだろ！"なんて。 ……でも、そこまで考えて、ふと気づいてしまう。 あいつは普段は控えめで目立たなくて、まるで自分というものを殺しているかのような態度で日々を過ごして、でも俺に対しては本音を並べて、遠慮がなくて。 だから俺もあいつには本音をぶつけて、なんだこの女！と腹を立てたことも一度や二度ではなくて。 でも、あいつとそうしたやりとりを交わしてきた日々が、あいつと本音で語り合える日々が、あいつの素顔を見る日々が…… そう、俺は決して嫌ではなかったのだ。 俺が宮水三葉という女の存在を知ったのは、三葉と知り合ったのは一ヶ月前。 それまではお互いに顔も名前も、存在すらも知らない関係だった。 たったの一ヶ月。でも、入れ替わりによってもたらされたお互いとの交流は、普通に知り合いとして過ごす一ヶ月とは比べものにならないくらい密度の濃いものだった。 嘘もごまかしも、隠し事もできない日々。自分がどういう人間なのかが、何のフィルターも通さずに相手に伝わってしまう日々。 今ではあいつの人となりも、何が好きで何が嫌いか、どうしたいのか、何を考えているのかまでを知ってしまっている……決して自惚れでなく、そう思う。 ある意味、十年来の友人をも越えるぐらいに――俺はテッシーやサヤちん以上に、あいつは司や高木以上に――俺たちはお互いを知っている。 初めて三葉と入れ替わった時、俺の目にはあいつは引っ込み思案で、内気な人間だと映った。 だからメモにはこう残したものだ。「お前はもっと堂々と生きろ」と。 でも、東京で立花瀧として生きるあいつは、向こうでの評価とは全く違っていた。これが本当に同一人物なのかと思うほどに感情豊かで、溌剌としていて。 だからずいぶん面食らったものだ。 でも、その理由も、今なら分かる。 三葉は、自分の人生が自分の意志で決められるものではないのだと、そう諦めてしまっている。諦めるという言い方が悪ければ、受け入れていると言った方がいいかもしれない。 宮水の長女として生きていくこと、自分は宮水神社を継いで、ずっと糸守で暮らしていくのだということを。 だから、宮水の人間としてこうあるべきだと考える姿を、あいつなりに真剣に守り続けてきたのだ。悪口を言われてもじっと耐え、良くも悪くも目立たぬようにし、周りに壁を作って。 あいつは、そう生きていくしかないと思っている。 だけどそれは、決してあいつの望む姿ではなくて、本当はもっと自由に、何者にも縛られることなく生きてみたいと思っていて…… だから、俺と入れ替わってその頸木から解き放たれ、"宮水三葉"としてではなくただの一人の人間として過ごせる東京での生活が、あいつにとってはとても楽しいものだったに違いない。 司や高木から聞くあいつの姿は、メモに残されたあいつの日記は、本当に嬉しそうで――だから俺はいつしか、こっちでのあいつの生活を尊重してやりたいと、そう思うようになっていた。 たとえそれがあいつにとってつかの間の逃避だとしても、せめて今だけは……この入れ替わりが続いている間は、自分の思うように生きて欲しいと、そう願った。 ……ああ、そうなのか…… 俺は、あいつのそんな姿を見るのが、たぶん……嬉しかったんだ。 (今は別の好きな子がいるでしょう) スマホに書かれたあいつのメモに目を落とす。 「どっちになっても、がんばろうね！　みつは」 メッセージは、そう結ばれている。 あいつは、どんな気持ちでこれを書いたんだろう。 俺が頑張って、もし今日のデートがうまくいったら、お前はそれで嬉しいのだろうか。 単純に、こうなったのも私の女子力のおかげやよね！　と喜ぶのだろうか。 ……そうであって欲しくない、と思う。 もしお前が、少しでも俺と同じ気持ちでいるのなら。 少しでも、同じ気持ちでいてくれるのなら。 "緊急時以外かけちゃダメ！" そう書かれているあいつの番号に、指を伸ばす。 今はただ、無性にあいつの声が聞きたかった。

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静寂の中。 虫の音に、意識を呼び覚まされる。 頬に伝わるアスファルトの感触で、私は転んだことを思い出す。 地面に倒れたまま、視界の片隅で空を見る。彗星はまだそこにあるから、気を失っていたのは一瞬だけのようだ。 でも、おかしな転び方をしてしまったのだろうか。少しでも身体を動かそうとすると、全身に痛みが走る。 立ち上がらなくちゃ、急がなきゃ……　そう思うけれど、脚に力が入らない。 もう限界を越えている。今日はずっと走り詰めだったのだ。 往復で半日はかかる御神体まで駆け上って、駆け下りて、神社で避難誘導して…… ただそれでも、さっきまでは私を支えてくれるものがあった。 彼がいてくれれば、彼のことを想えばどんなことでもできる、そう思っていたのだ。 それなのに―― 絶対に忘れないと誓ったはずの彼の名前が、今はどうしても思い出せない。 他のことは全て覚えているのに、彼の名前が、彼の顔が、彼に関する記憶だけが、まるで奪い取られるかのように私の中から消えていく。 それは私にとって、まるで生きる意味を失ってしまうかのように感じられた。 もう、このまま…… はっきりとしない意識の中で、私はぼんやりとそう思う。 あの人に気づいてもらえないまま、私は一度死んで……　でもそんな私を、あの人は助けに来てくれた。 私に逢いに来てくれた。一緒に笑ってくれた。とても暖かかった。 それだけで、私は本当に、本当に幸せだった。 だから、もう、このままで…… そう思いながら、また意識を失いかけた、その瞬間。 頭の中に、あの人の声が響いた。 　目が覚めても忘れないようにさ、名前、書いておこうぜ ……そうだ……！ そうだった、何で忘れていたんだろう。あの人は私の手のひらに名前を書いてくれたんだ。 握りしめたままでこわばった右手を、ゆっくりと開く。 そこにあるはずの彼の名前に救いを求めて。 でも、そこに書かれていたのは名前ではなかった。 名前とは全然違う三文字――でもそれは、たぶん、私が心の奥底で一番欲しいと願っていた言葉。 もしかしたら、もしかしたら、あの人も……　あの日、不安と緊張の中で、一縷の望みにすがるように、そう祈っていた言葉―― 　すきだ 息が詰まる。そして、胸の奥から暖かいものが沸き上がってくる。 涙が溢れて、でもその涙は、さっき彼の名前を忘れてしまった時に流したものとは全然違う涙で。 私はゆっくりと立ち上がって、もう一度右手を見る。 滲む視界の中で、この言葉を、この気持ちをしっかりと記憶に刻み込むために。 「……これじゃ、名前、わかんないよ……」 ずるいよ、こんなの。溢れる涙をぬぐいながら、私はそう思う。 記憶の片隅に残るあの人は、片想いの女性にアプローチすることもできないような、そんな人だった。 命がけで助けた女の子に対して、気の利いた一言も言えない、そんな人だった。 それなのに、こんな時ばっかり…… ずるいよ、こんなの。ずるいよ、自分だけ―― 私も、私だって、言いたかったのに……！ 涙を払い、私はもう一度走り出す。 さっき私は確かに一度諦めかけて、でもまた、あの人は私を助けてくれた。 だから、もう諦めない。もう迷わない。 お父さんを説得して、みんなを助ける。これは私にしかできないことで、私の使命。 そして、もしそれができたら―― 胸を張って、あの人に逢いに行きたい。 伝えに行きたい、あなたがみんなを救ってくれたことを。 伝えに行きたい、あなたが書いてくれた言葉の返事を。 たとえあの人の記憶を全て失ってしまっても、私のこの想いさえ無くさなければ、いつかまた、きっと逢える。 私は、そう信じている。